日常の超能力−常能力



バイクを運転していて、前からくる車がウインカーも出さないで急に右に曲がり
一歩間違えば突っ込んで衝突してしまうところを『あの車は右に曲がるぞ!』と教えてくれる何かが
とっさに働く事があり、そのままではぶつかるところを無意識にブレーキを踏んで、
未然に事故を防げたりするような事があります。
そのとき、僕の眼にはその車そのものは視界には入っているのですが、その車のみを観ている訳ではありません。
全体的に状況をながめている中で、たぶんタイヤがほんの少しだけ右に傾いた事を
僕の中の何かは見ていて『このままではぶつかるぞ!』と僕に教えてくれる訳です。
この事にはもちろん運転経験の積み重ねも大切ですが、問題は何が僕に囁きかけるのかと言う事です。
良く考えればこのこと自体でも十分に超能力足りうる能力であるはずです。
普通に生活していても、ただ、空を眺めていても目の前の日常の風景や物には、
それぞれにさまざまな情報が内包されていて、それを無意識に受け取る能力が正確になれば、
それはもう何かを越えた力となるのじゃないでしょうか?

『存在そのものへと加速する』という題名の一連の僕の作品の“存在”っていうのは
人を超えた何かが-在る-ということ、その凄さ。そしてそこへ向かって行く。
“加速”なんてのは、そんなテンションが、たかまっていく様子。
『光になろうとする努力』の“ひかり”も人智を超えたところのなにか。
『覚醒機能増幅装置』の“覚醒”こそが、超人(超能力者?)へと至る道への鍵で、
それはけして困難で特別な‘物’や‘所’の産物ではなくて確実に僕ら人間の中に宿っている類いの感覚で、
ただ、それに飛び移る、叉は、つかみ取る“コツ”さえ呑込めば
僕らは何らかの形で飛躍的に進化できるのではないだろうか?
その為のそんな感覚を増幅させる装置があったら“力”を手にできるのではないか?

『超感応性光速無限連鎖線』という作品は、僕らが『脳みそ』という自らの装置の中で考える仕組みそのものの、
その内部の信号の連鎖の仕方さえもっと的確であれば、覚醒への無限の可能性への道を
より明確にしてくれるのではないか?----- という問いに対して制作されたものです。

ただ、どれもこれも超人そのものや、光や覚醒そのものが興味の対象ではなくて、
“そこに至る過程”こそが大切なのだと僕はいつも考えています。
なぜならそれこそが『アート』だからです。
もし僕らに覚醒がすでに訪れていて超人たりうる資格をすでに満たしていたとしたら、
そして、もしすでにそこに至っていたとしたら、『アート』なんてものは全く必要のないものでしょう。

飛ばし過ぎると現実感がなくなります。スピードを落としてもすでにそこにあるものは逃げない。
大切なことはどんなことをしていても、どんな時でも、『世界は広くて無限で意味に溢れている』ということを
常に感じながら行くことではないでしょうか?
実はその感覚は、何のことない日常のそのへんに転がっているものです。
ただそれを感じ続けるのにはちょっとのコツと見方が必要なようです。
人に欠けている何かを補うもの、または垣間見せてくれるもの、
それがアートのあるべき形、少なくとも僕はそう考えます。 



加藤 勇






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