私は、スペイン、フランス、アメリカなど世界各地で、主にインスタレーションを中心に10年間創作活動を行ってきた。
このほど、アンダルシア政府、ピカソ財団によりグラントを受けたのを機に、東洋の現代美術や、その文化をリサーチするため、来日することを決意した。
現代美術製作所での展覧会には、ヨーロッパの要素と普遍的な精神が混ざり合っている。
それだけでなく、現在のところ私は京都、西陣のアーティスト・イン・レジデンスに参加しているが、そこで自分が見出した、日本独特の空間の活かし方も取り入れている。
限界、境界、不連続性といったもの、そして空間を乱すという同様な方法が私の作品の基礎である。
常に限界に近いところで創作しているが、人生、芸術、精神、および人間を取り巻くありとあらゆるものを理解するために、私の作品は非常に独自な手段を用いている。
私はいつも前向きな気持ちで、自分達を取り巻く、次第に複雑性を増してゆく世界に立ち向かうための新しい進路、形態、方法を見出そうと努めている。
複雑性は、シンプルな形式において明瞭に表現される。
それは困難な作業だが、同時に私にとって挑戦でもあるのだ。
これは、ある2つの異なる空間をつくるというプロジェクトである。
1つは、東京の現代美術製作所における「消滅する空間」であり、もう1つは、京都の西陣北座における「追放される空間」である。
それらの空間にはまた、大阪の京橋駅でのパフォーマンスの動きのビデオが写され設置されることになっている。
「消滅する空間」には、シンプルで軽量なものを配置する。
セロテープ、ありふれたサンダル、シルク、それに小型モニターなどで、簡単に設置できるものばかりだ。
この「消滅する空間」とは、自らの意志で消滅していくものという考えのもとに作られる。この場合、消滅とは視界から消えるという意味だが、消滅という言葉にはまた、少しの間隠れていて目に見えないという意味合いもあり、いずれにしても簡単に行われるものではない。自らが自己の力で消滅するというのは困難なことであり、その意志が強ければ強いほど失敗に終わることがよくある。
生きること。
それは繋がりのないとぎれとぎれの動きである。存在と不在で作られるリズム、出現と消滅、沈黙と会話、、、中断、、、休止。生きること。それは穴のたくさん開いた壁で出来た、浸透性のあり、勝手きままに通り抜けすることが出来る国境のようなもの、、、つまり開放された状態。
死。
それは密閉され、通り抜けられず、頑固なもの、、、閉鎖された状態。しかし、実際は単純に生と死だけにとどまらず、私たちのまわりには手元から逃げてしまいそうな複雑なリズムの生と死の2項式に出くわすことがある。この世はいつも最初に考えていたことよりも複雑になっていくものだ。
アートは、シンプルなものを使って複雑に会話するために必要な道具であり、これこそが今私たちに課せられた仕事なのである。
「追放される空間」には、複雑で重量感のあるものが置かれる。
舞台用の木材、金属、鏡、ビデオの映写機、音響装置、巨大画面などを配置する。「消滅する空間」と概念上の複雑さは類似している。
一般に、消滅や、追放すること、あるいは追放されることを行うには一見巨大な組織のしくみを必要とするかのように見える。(強い愛国心は本質的には外国人を追放に導く。つまりは、カースト制度は他の弱いせん民を生み出すために必要不可欠だということだ。)しかし実際追放は、階級や、言語、文化などの異なるメディアを通して、複雑さを伴いながら一瞬毎に生み出されていく。ある意味、コミュニケーションのリズムを見いだすことは、そのリズムによって新たな閉鎖を生み出すと分かっていても必要なことでもある。
そしてもう1つの複雑な問題に直面することになる。その問題とは、私達1人1人が頭と心で柔軟性の必要性をいかに理解するかということであり、またアートに関して言えば、それがほとんど直感だけで始まるものではなく、柔軟性や活動力で成り立つものだということだ。しかし、混同してはならない。柔軟である、ということは決して自分の意志が弱くなるという意味ではない。別の表現をするならば、描く線は出来るだけ正確な方がいいが、それらの線は次の結合や繰り返し考えることによってとぎれとぎれになることもある。それはそれぞれの地点で新たな答えを期待しているからである。
自らの意志で消滅を望む者と、他からの意志で追放される者とは何ら違いがあるであろう。しかしそれはどちらも重要な問題ではないのだ。
これらは言うならば社会の発展や、何か正面から立ち向かう時や、結合の際に起きるリズムの中の2つにすぎない。
生きるということは、決めごとによって作られた世界と何も決められていない世界、点と点とを結ぶ空間が埋められているものと空いたもの、その上をふわふわと浮いているようなものではないか。そして、しばしば人は自分自身のことを二つの岸辺の間にある橋に例えて考える。結局、全てにおいてそれぞれの動きというものは、よく似た終末に向かって導かれているのではないか。心臓の鼓動のようなとぎれとぎれのリズムを持つもの。
私たちが向かっている道。それは機械の動きや宇宙構造、生活構造に似たとぎれとぎれの道。私たちがその道のりを描いていく。
ホアキン・イヴァルス
Joaquin Ivars
Kyoto, Noviembre 1998